子どもの頃から不思議な感覚がありました。
自分の意識と、目の前の人、物が全く違う世界のような気がして、まるで夢か幻を見ているかのような…。
誰にでもあるかも知れません。
自我の目覚めの時に感じる、
「自分とは…何なんだろう…」というような感覚です。
年齢を重ね、いろいろな知識を得て、自分なりに何となく答は出ていたのですが、最近ある書籍を読んで、「真理」に気付いてしまいました。
そして、あまりのショックでしばらくブログを書けないでいたのです。
どう書けばいいのか… しばらく悩んでいました。
☆ここからは、ファンタジーの話です。
もし目の前の事が、本当に幻想だとしたら…。
現実の出来事だと、思い込んでいるだけだとしたら…。
「自分」というものは、本来ただの意識体だとしたら…。
制限も何もなく「無限の存在」だとしたら…。
「本来の自分」という意識体が、いろいろな感情を味わうために、「現実の自分」という意識を創り出し、他人や物、出来事をも創り出し、 「人生ゲーム」を遊んでいるのだとしたら…。
とんでもない作り話みたいですが、仮説として、そういう形でこの世界を見てみると、いろいろなことが腑に落ちたのです。
「現実の自分」は、いろいろなことに悩み苦しみ、喜んだり楽しんだりしています。
それを、 「本来の自分」は、まるで映画を観るように楽しんでいるのです。または、ゲームのように楽しんでいるのです。
「本来の自分」にとっては、どんな状況でもそれは「真の喜び」なのです。
だから、 「現実の自分」がどんなにうまくいってないように見えても、 「本来の自分」にとっては、すべて「真の喜び」なのです。
すなわち、人生はそのままでいいということ、そのままで完璧なのです。
ネガティブな感情になったときこそ、それを思い出してみましょう。
いろいろな感情を味わうために、自ら映画を創り、それを楽しんでるようなものです。
「本来の自分」が脚本家であり、監督であり、スタッフであり、主人公です。
そして、登場人物、小道具、セットなんかを創り出し、出来上がった映画を観て、楽しんでいるのだとしたら…。
おもしろいと思いませんか?
その「本来の自分」とは、何の制限もない意識体であるので「無限の存在」です。
別の言い方をすれば「魂」とも言えるでしょう。
また、宗教によっては「神」、「仏」ととらえることもできます。
擬人化しないなら、「タオ」「大いなる存在」「宇宙の法則」など…。
正直、定義する事ができない、それこそ「無限の存在」です。
実は、それが「自分」というものの正体なのです。
「そんなこと、信じられるわけがない!」と思うのは、 「現実の自分」には理解できないようになっているからです。
「有限」の自分の思考から、 「無限」を本当に理解することはできません。
だから、理解できなくていいのです。
そういうファンタジーな目で、この世界を見てみると、おもしろくなってきませんか?
あれもこれも、 「本来の自分」が創り出したものだと思うと、あの腹の立つヤツ(登場人物)も、愛おしく見えてきませんか?(^.^)
愛おしく…まで思えなくても、自分が創ろうとしている映画に必要なキャストだということです。
「そんなのは現実逃避だ!」と言うかもしれません。
いや、だからその現実がもともと幻想なのです、まぼろしなのです。
「現実の自分」が現実だと思い込んでいるだけなのです。
実は、この世に存在するのは「自分」だけなのです。
その「自分」を含むただの意識体だけなのです。
「自分」とは、その無限の意識体そのものすべてなのです。
そのすべてとは、自分のことなのです。
(>_<)なんか頭がおかしくなってきそうですね。
ファンタジーの世界でした☆
★注意事項★
ここに書いたことは、きっかけになった書籍の内容と、必ずしも同じではありません。
私が今まで経験したことや集めてきた情報をもとに導き出した仮説です。
これから先、この仮説がどう変化するか私にも分かりません。
まだまだ旅の途中です。
最後までお読み頂きありがとうございます(^^)
旅の途中… それもまたよし!