それもまたよし!

思いつくまま 気の向くまま のんきに綴ります

『賢者の習慣』

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『アーノルド・べネットの賢者の習慣』より

 

『内なる声は、絶え間なくこう責め立てる

「意気地無し。お前は勇気がなかった。人生から逃げたのだ。」

もちろんこの声は、他人には聞こえない。しかし、どうがんばってみても黙らせることができない。

だから、最後になって、この恐ろしい内なる評決が下るのを聞かなければならないと思えば、世間でいう意味で不幸な一生を送るほうが、よほど「幸福」とも言えるのである。』

 

これを読んだとき、頭をどつかれたような気分になった。

今まで自分なりにいろいろなことに挑戦してきた。

それなりに手に入れたものもある。

しかし、とことんまでやってきたのか?

勇気が出せず、尻込みしたこともしたこともいっぱいあったのではないか?

自分の正直な気持ちはどうなのか?

 

いい歳になって、こんなことに頭を悩ますのもどうかと思うが、アラフィフを越えて人生の先が見えてきたこの歳だからこそ、考えてしまうのだ。

 

『私がいいたいのは、立派な仕事にせよ、つまらない仕事にせよ、人は仕事に逃げ場を求めようとするが、人生に対する最大の罪は、人生から逃避しようとすることだということである。もし、この罪を犯せば、唯一の本物の幸福を逃してしまうことになるといいたいのだ。この本物の幸福は、単なる快楽からも、また、満足感と諦観からも得られはしない。善悪の判断力は、悪い行いだけでなく、善い行いによっても麻痺してしまうことがあるということだ。』

( 諦観:本質をはっきりと見極めること。あきらめ、悟って超然とすること。)

 

さらにこう続く。

 

楽で平坦な道が、実は険しい道であり、あえて挑まなかった荒れた道こそ、厳しいにもかかわらず、本当は歩きやすい道だったかもしれない、と気づく。本当の生き方がわからなくなり、たえず苦しい後悔にさいなまれる。』

 

誰しも心当たりがあるかもしれない。

 

『私の考えでは、幸福とは、まず「精いっぱい、ひたむきな努力をした後に得られる満足」を指す。誰しもミスをしたり、あるいは重大な過失を犯したりした経験はあるものだ。こうした失敗について考えると、晩年にはたとえわずかにせよ、暗い影が投げかけられるにちがいない。しかし、だからといって、満足が味わえなくなるとはかぎらない。死ぬ間際になると「私は馬鹿な真似をしてしまった」と認めざるをえないとしても、みな、それでも結構幸せなのだ。

 一方、もう二度とないような局面で、人生が突きつけてきた重大な挑戦に応じなかったと後悔しているならば、けっして満足できないし、それゆえ、私の考える意味で、「幸福」とはいえない。』

 

この後、冒頭の文章が続く。

 

長々と引用してしまったが、人生を諦めるにはまだ早い気がして…

最後の悪あがきしてみようか… と思う今日この頃です。

 

 

最後までお読みいただきありがとうございました(^^)