ひとつの考え方だが、仕事はどれだけ人を集められるかということが大事だ。
職種にもよるが、どんな場合にも人との関わりが必要になってくる。
たとえ、全ての人に好かれなくても、人を集めたり、うまく使うことができれば、仕事ができることになる。
自分ができないことは、誰かにやってもらう…そういう人を集めれば仕事はまわる。
人を操るのも才能だ。
何かを創作できなくても、創作できる人間を集めたらいい。それができれば成り立つ。
逆に、創作できる才能があっても、それをうまく使ってくれる人がいなければ、誰の目にも触れず消えていくこともあるだろう。
“才能” というと「ある、ない」という優劣の意識が浮かんでくるが、そうじゃなく
“ニーズ” という考え方にしてはどうか。
「需要と供給」だ。
優劣じゃなく、多様性の中で、必要な所に必要とされる人が当てはまる… 理想な形だ。
適材適所とも言う。幸せの形であるとも言える。
そういう意味では “出会い” というのは、大切なものだ。
人間関係が、幸せを導くひとつの鍵となる。
そのためには、自分で動いてもいいし、ただ待つということでもいいだろう。
できることなら、自分の適材適所を探しながら、他人のそれにも貢献できればいい。
「僕、食べるひと。私、作るひと。」
みたいに分けることはない。
それに、人間関係が苦手でも、出会いはそれなりにあるものだ。
人間関係が得意といっても、そんなものはピンキリ。劣等意識を持つ必要はない。
「誰とでも仲良くなれます!」
「人づきあいが苦手です。」
まず、この考えに優劣を抱くことをやめないと、真実を見極めることはできない。
出会いというものは、見えない力が働く “ミラクル” のようなものだ。
“自然の法則” の中にあり、ある出会いが光を放つものになるのは、人間の力によるものではない。
そう考えて何か作為したところで、本当の光を放つようになるとは限らない。
それはやっぱり “ミラクル” 。
出会いが多い、人づきあいが得意だと、“ミラクル” が起こりやすいかというと、そうとも限らない。
それは人間には予測できないことだ。
だから、人間関係うんぬんより、得意不得意を論じるより、
「人との出会いはすばらしいもの」
という意識を持つだけでいい。
より多く出会えばいい…とか、確率論的思考は手放そう。
それは結局、優劣思考に基づいている。
「出会いは多いほうがいい」は
「人づきあい苦手は、不利、劣っている」
という考え方だ。
それは無しにしよう。
「今までのすばらしい出会いに感謝し、これからも大切にしよう。」
そう思うだけでいい。
数ではない、比べるものでもない。
感謝し、またすばらしい出会いがあるだろう…
と、わくわくしながら生きていければいい。
取り留めのない日記でした。
最後までお読み頂きありがとうございます(^_^)
俺、友達いないけど… それもまたよし!