本当は、やりたいことやってる⁉︎
人生うまくいかない…
仕事がツライ
生きるのが苦しい
あれが無い これが無い…
文句、グチ ばかり言いながら
実はそれを楽しんでいるのではないか?
「そんなことない!」
でも、うだうだ言って何もやらない…
ってこと選んでいるのではないか?
それは
無意識に、やりたいことやってる…ってこと。
居心地がいい所に居るって
自分ではなかなか気づかない。
しかし、無意識の自分は、居心地のいい所にいつまで も居ようとしている。
それはまるで
朝、フトンから出れないような感じ。
「あ〜 なんて気持ちいんだ (*´-`) 」
頭では「もう起きなきゃ…」と考えながら
気持ちよすぎて起きれない…
まさしくそんな感じ。
もうそろそろ、フトンから出てみてもいいかもね。
楽しいことばかりじゃないかも知れない。
でも、少なくとも退屈じゃないよ(^o^)
さぁ、フトンから出よう!
新しい冒険に出よう!
今日はどんなことで、また悩ましてくれる?
苦しませてくれる?
また、思いっきり文句言ってやろう!
グチってやろう!
毒吐いてやろう!)^o^(
それもまたよし!
最後までお読み頂きありがとうございます(^-^)
飄々(ひょうひょう)と生きる
自分自身の今年のテーマ
「飄々と生きる」
ということにした。
生真面目で心配性な自分。
「いいひと」やめてもっと自由にゆったり生きるんだ!
という意図だが、手帳に書いたり日記に書いたりしてるうちに、なんか笑けてきた(^O^)
飄々… 意味は…
「性格・態度が世俗を超越していて,とらえどころがないさま。
風に吹かれてひるがえるさま。ぶらぶらと、あてどもなくさまようさま」
本当に生真面目な人間は、「飄々」なんて言葉、浮かんでこないよ(>_<)
そう、自分は本当はすごいマイペースな人間だったんだ!
心配性で気が小さくて、すごく緊張するし、頭が真っ白になるし、大胆なことなんかできない…
でも、やっぱりどこか、のほほ~んと生きてきたみたい。
人目が気になる事なかれ主義で、自分の意見もはっきり言わず、まわりに合わせることで上手く生きてきたことには違いない。
でもやっぱり、「飄々」って言葉、ど考えても、「俺のことやないか!」
と思ってしまう(>_<)
今は、一応普通の会社員で家庭も持っているが、充分今まで「飄々」と生きてきたみたい…
やりたいようにやってきたみたい。
改めて思い出して、笑ってしまった(^O^)
「あんな風になりたい…」
ある人の生き方や考え方、そういうものに憧れや共感を覚えるとき、実は自分にもその素質があるということです。
すべてがそうだとは言いませんが、「人は普段考えてる通りの人間になる」というのはそういうこと。
自分の中にあるから気づく。
自分の中にあるから共感する。
そして自分の中にあるから、いずれそうなっていく。
無意識にそうなっている。そう生きている…。
もうひとつ思い出した。
昔、学生の頃、将来の夢「大きな人間になりたい」って書いて、友達に笑われた。
「なんやそれ?」って。
自分でもおかしいと思ったが、書いた瞬間はいたって真面目な気持ちだった。
別に今現在、大きな人間になってるわけじゃないが、計算高く上手く立ち回れない俺は、少なくとも小さいヤツだとは思われてないみたい。
自画自賛(^_−) いや、何も考えて無いだけ(>_<)
自分ではネガテイブ思考で短気だと思っている。
でもよく、「いつもニコニコしてるね」とか
「おだやかで落ち着いてるね」とか言われる。
他人からはそう見えるだろうか…?
じゃ、そういうことにしてしまおう!(^o^)/
俺って、結構イケてるんちゃう?(^o^)
やっぱり、飄々と生きてるみたいやね(๑˃̵ᴗ˂̵)
それもまたよし!
最後までお読み頂きありがとうございます(^o^)
正直な気持ちは常に正しい!
人生を豊かにするメソッドはいろいろあります。
様々な方向からアプローチすることができます。
しかし、人によって合う合わないもあり、本当に効果があるのか、なかなか実感できないものです。
もっともっとシンプルに考えてみましょう。
たったひとつ、秘訣をあげるとするならそれは
「自分に正直になる」ということです。
宗教も性別も立場にも関係なく、一番シンプルで大切なことです。
自分の正直な気持ちはどうなのか…それを意識することです。
実際には社会生活の中で、何でもかんでも正直に振る舞えるるわけではありません。
思った通りにならないことばかりです。
だから時々でいいのです。時々思い出すだけでいいのです。
「自分は本当はどう思っているのか…」
正直な気持ちに気づくことは、冷静になれるということ。
落ち着いて周りを見ることができるということです。
行動や振る舞いは、もっと後でいいのです。まず気づくこと。
人が言うからではなく、常識だからではなく、人目を気にするのではなく、良く思われたいからでもなく… 本当は自分はどう思っているのか…。
もし、とても苦しくて「無理!できない!逃げ出したい!」
というときは、素直にそうすればいいのです。
それは、劣っているわけでも、間違っているわけでもありません。
他人の評価は関係ありません。
自分に正直ということが正しいことなのです。
そうは言っても… とまわりを気にして自分にウソをついていると、結局ずーっとそのままです。
まあそれもまた、自分の人生ではありますが…(>_<)
本当に幸せになりたいのなら、変わりたいのなら、実はとても簡単でシンプルだということです。
私も、日々心がけてはいるのですが…(-_-;)
ついつい周りを気にしてしまって…(>_<)
それもまたよし!
最後までお読み頂きありがとうございます(^o^)
かれこれ3カ月ぶりの更新です
自分の中での気づきがあり、あまりのショックで書けずにいました。
今まで書いたことは、正しかったんだろうか?これから書くことに矛盾は無いだろうか?
ちゃんとした物を書かなければ…という気持ちがあり、それが書くことを億劫にさせていたのです。
どこかにまだ、優等生気質が残っていたみたいです。
いいひとなんかやめた!と言いながら、またいいひとぶってたみたいです。
今までの生き方を変えることは難しい。
だったら無理することもないのかな…と。
「三歩進んで二歩さがる…」でいい!
ということにします!
実はこういう状況を楽しんでいるのかも知れませんね。
じゃ、楽しんでみましょう!
思いっきり楽しんでやりましょう!(^o^)
ということで、これから読んでくださる方々も、肩の力を抜いて一緒に楽しみましょう!
これからも、感じたこと、気付いたこと、気ままに思いつくままに書いていきます。
今後とも、よろしくお願いします*(^o^)/*
「考えない…」
腹の立つことがありました。
「自分のことばかり考えやがって…」
一日中そのことばかり、ぐるぐる頭の中を回っていました。
よっぽど腹が立ったのだろうか…
いや単に暇なだけなんでしょう。だから、他人の言動にイラつくんです。
自分が充実していたら、気にならないものです。
基本的に、どんな出来事もニュートラル。どう感じるかは自分次第です。
その時の気分によって、受け取り方が変わるのはよくあることです。
だからこそ、肝に銘じないといけないことがあります。
自分の言動は、自分ではなかなか分からないものです。
他人の言動に投影して、初めて気づかされるのです。
良いことも悪いことも、他人の言動に引っかかって初めて
自分の中にも同じものがあるのが分かるのです。
すべてがそうだとは言えませんが、いろいろな意味で
はっと気づかされることは多いものです。
「人の振り見て 我が振り直せ」
誰もが知っていることわざです。
しかし、腹が立っている時は要注意です。
一見、自分は正しいという風に見えますが、裏を返せば「自分もそうしたい!」という欲求の表れです。「俺はできないのに…くそっ」というのが本音です。
まさしく我を忘れた状態、本来の自分を忘れた状態です。
そんな時どうすればよいか…?
気づくだけでいいのです。
味わうだけでいいのです。
体験すれば、それでいいのです。
どうのこうのしよう…とか、反省しようとか思わなくていいのです。
ただ見て、「ふーん、なるほど…」それだけでいいのです。
そこから先へ行こうとするから、おかしくなるのです。
人の評価や判断、正しいとか間違いとか、常識とか…
考えるから道に迷うのです。
人生、考えなくていいことがほとんど。
考えなくてはいけない…と思い込んでるだけです。
とんでもないことになる…と思い込んでるだけです。
今度、考えてしまいそうになったら、ぐっと我慢してみましょう!
きっと新しい体験がありますよ!
最後までお読み頂きありがとうございます(^_^)
ついつい考えすぎてしまうけど…
それもまたよし!
真理への旅の途中…
子どもの頃から不思議な感覚がありました。
自分の意識と、目の前の人、物が全く違う世界のような気がして、まるで夢か幻を見ているかのような…。
誰にでもあるかも知れません。
自我の目覚めの時に感じる、
「自分とは…何なんだろう…」というような感覚です。
年齢を重ね、いろいろな知識を得て、自分なりに何となく答は出ていたのですが、最近ある書籍を読んで、「真理」に気付いてしまいました。
そして、あまりのショックでしばらくブログを書けないでいたのです。
どう書けばいいのか… しばらく悩んでいました。
☆ここからは、ファンタジーの話です。
もし目の前の事が、本当に幻想だとしたら…。
現実の出来事だと、思い込んでいるだけだとしたら…。
「自分」というものは、本来ただの意識体だとしたら…。
制限も何もなく「無限の存在」だとしたら…。
「本来の自分」という意識体が、いろいろな感情を味わうために、「現実の自分」という意識を創り出し、他人や物、出来事をも創り出し、 「人生ゲーム」を遊んでいるのだとしたら…。
とんでもない作り話みたいですが、仮説として、そういう形でこの世界を見てみると、いろいろなことが腑に落ちたのです。
「現実の自分」は、いろいろなことに悩み苦しみ、喜んだり楽しんだりしています。
それを、 「本来の自分」は、まるで映画を観るように楽しんでいるのです。または、ゲームのように楽しんでいるのです。
「本来の自分」にとっては、どんな状況でもそれは「真の喜び」なのです。
だから、 「現実の自分」がどんなにうまくいってないように見えても、 「本来の自分」にとっては、すべて「真の喜び」なのです。
すなわち、人生はそのままでいいということ、そのままで完璧なのです。
ネガティブな感情になったときこそ、それを思い出してみましょう。
いろいろな感情を味わうために、自ら映画を創り、それを楽しんでるようなものです。
「本来の自分」が脚本家であり、監督であり、スタッフであり、主人公です。
そして、登場人物、小道具、セットなんかを創り出し、出来上がった映画を観て、楽しんでいるのだとしたら…。
おもしろいと思いませんか?
その「本来の自分」とは、何の制限もない意識体であるので「無限の存在」です。
別の言い方をすれば「魂」とも言えるでしょう。
また、宗教によっては「神」、「仏」ととらえることもできます。
擬人化しないなら、「タオ」「大いなる存在」「宇宙の法則」など…。
正直、定義する事ができない、それこそ「無限の存在」です。
実は、それが「自分」というものの正体なのです。
「そんなこと、信じられるわけがない!」と思うのは、 「現実の自分」には理解できないようになっているからです。
「有限」の自分の思考から、 「無限」を本当に理解することはできません。
だから、理解できなくていいのです。
そういうファンタジーな目で、この世界を見てみると、おもしろくなってきませんか?
あれもこれも、 「本来の自分」が創り出したものだと思うと、あの腹の立つヤツ(登場人物)も、愛おしく見えてきませんか?(^.^)
愛おしく…まで思えなくても、自分が創ろうとしている映画に必要なキャストだということです。
「そんなのは現実逃避だ!」と言うかもしれません。
いや、だからその現実がもともと幻想なのです、まぼろしなのです。
「現実の自分」が現実だと思い込んでいるだけなのです。
実は、この世に存在するのは「自分」だけなのです。
その「自分」を含むただの意識体だけなのです。
「自分」とは、その無限の意識体そのものすべてなのです。
そのすべてとは、自分のことなのです。
(>_<)なんか頭がおかしくなってきそうですね。
ファンタジーの世界でした☆
★注意事項★
ここに書いたことは、きっかけになった書籍の内容と、必ずしも同じではありません。
私が今まで経験したことや集めてきた情報をもとに導き出した仮説です。
これから先、この仮説がどう変化するか私にも分かりません。
まだまだ旅の途中です。
最後までお読み頂きありがとうございます(^^)
旅の途中… それもまたよし!
- 作者: ロバート・シャインフェルド,本田健
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弱ったときにこそ…?
これといって、大したことをしてくれたわけじゃない。
でも、「救われた!」と感じることがあります。
例えば、職場の同僚。
言い方は悪いが、普段少しバカにしてるような相手でも、こっちが弱っているときに、ちょっとしたねぎらいの言葉をかけられただけで、救われれることがあります。
それほど仕事ができるわけじゃないけど、一生懸命やってる姿や、前向きな言動を見たりすると、まぶしく見えてきます。
大きなお世話かも知れませんが、今まで苦労してきたんだろうな… 自分なりにがんばってきたんだろうな… と勝手に想像して、でも今、明るく生き生きとしていて本当によかったね!と思ってしまいます。
ほんと大きなお世話ですが、いろんな苦しみを乗り越えてきたんだろうな…と。
だから今、そうやってまわりの人を救うことができるんだな…と。
別にすごいことをしたわけじゃない。
ただ、本人は明るく過ごしているだけ、そして僕は「救われた」と感じた、それだけです。
どんな人からも学べるものはあります。
そう考えると、やっぱり人と人を比べたり、上とか下とかそういう考えは必要のないものです。
その人が有益かどうか…も関係ありません。
どんな人間も、自分も含めてかけがいのない存在だということです。
縁があれば、同じ時間を共有できます。何かを学ぶこともできます。
更に縁があれば、家族として共に成長できるでしょう。
直接的でも間接的にでも、心が響けば、感謝すれば、必ず何かは得られます。
自分が元気な時には、なかなか気づきません。
傲慢になって、ついつい上から目線です。
弱ったときにこそ、気づくこともあります。
そういう意味では、落ち込むこともたまには必要かも知れませんね…。
それもまたよし!
最後までお読みいただきありがとうございます(^-^)